「自分のために頑張る!」という気力が湧かない。

久しぶりに投稿してみる。
前記事はかなり前向きな自分だったなぁ...と振り返りしみじみ。
あれから8ヶ月も経つのに、結局、何も進捗がない。
自分のダメ人間さを改めて実感ぜざる負えない毎日を過ごしている。
小さな理由はいろいろあるけれど、結局どれも些細で単なる言い訳だ。
やっぱり大元は自分の根幹。
「自分のために頑張る!」という気力が湧かない。が本心だ。

 

自己否定感が強く。見捨てられ不安が強く。
居場所が欲しくて、人に認められたくて、必要とされたくて。
「自分のために頑張った先の未来が、なりたい自分につながる」と
ちゃんとわかっているんだけど。
自分のために頑張る!を継続できずにいる。

 

一方で、誰かのためなら頑張れる!という自信はあって。
最近は自分を理解し、極力自分から他人に深く関わらないよう過ごして、
大きなトラブルに縁遠くなったことで、もう同じ過ちは起こさないんじゃないか?
なんて甘い考えをしていたけれど。
誰かにわかりやすく必要とされたい!と他人に存在意味を依存する心が強いのは、
結局変わっていないんだと気づかされる。

 

そんなこんなで最近は心が何かと不安定になりがちだ。
妙な不安感が襲ってきて、なんだか息が苦しくて痛くてツライ。
捨てずに少しだけ残しておいた心のお薬を飲んでみたり。
あまり効きもしないのに、在庫が減ってきて違う意味で不安になったりしている。

 

「自分が自分のクライアントになるような仕事がしたい。」
ぼんやりした夢はあるのに、実現のための1歩1歩が踏み出せない。
もうババアの域なのに。いつまでこんなモンモンするのだろうか?
んもう、いい歳して思春期かっ!
思い描いていた大人と、あまりにかけ離れている自分にガックリする毎日だ。

今日思いつく、未来へのTODO。心NOTE。

私は今春で42?
正直、最近自分の年齢がわからなくなってきた。40すぎたら、もういくつでも一緒だよ。というか。歳はとりたくないけど、絶対にとっちゃうんだから、こればっかりは仕方ない。気持ちの波と戦いつつも、今年は少し気持ちを切り替えて過ごそうと絶賛努力中だ。ここ数年「隠」として生きてきた私が、今年は少しだけ「動」や「成長」をテーマに過ごそう思っている。このblogで初めて、ちょっと前向きな内容だ。

 

私はOL上がりのなんちゃってデザイナーだ。今わりと好きを仕事にさせてもらっている。どうにかこうにか、日々あがきつつ、なんとか形にして仕事をしている感じだ。もともとスキルがおぼつかない上に、ここ数年は自分の心の時間が止まっていたせいもあって、特に昨年は力不足を痛感するシーンが目白押し...コテンパンだった。

 

今年はそんな自分を少しでも変えたい!成長したい!あわよくば人間になりたい!
そんな自分が、今具体的に目標としているのは、苦手すぎて今までスルーしてきたphp・jsの習得だ。見るだけで固まってしまうのだけど、今年はこれをなんとかしたい。最近は少しこっそりとセミナーに参加してみたりしている。ゆくゆくはrubyも。あわよくばxcodeも。なんて、身の丈に合っていない大きすぎる夢もこっそりあったりなかったり。そんなプロラミング関連を今年は継続してきちんと勉強していきたい。プロラミングと全く関係ないけど、LINEスタンプなんかも自作してみたい。

 

こういったwebなどの「制作」に、実際手を動かす立場で出来るだけ長く携わっていきたいと思っている。ただこの「制作」をこの先もずっと自分の仕事の「柱」として生きていけるのか?3年後は?5年後は?10年後は?冷静に立ち止まって考えると、正直厳しいように思う。すでに今の会社や仕事も、あとどれだけ続けていけるの?と不安な毎日だ。タイムリミットは刻々と近づいている気がする。今の仕事を続けられるにしても、られないにしても。ここ数年特に自分を諦めて時間が止まっていた隙間を、少しでも埋めたい。今のスキル自体をもっと高めていく努力をしたいと、少しずつだけど動きだした。

 

それはそれとして。さらに角度を変えて他の何かを身に付けないとと、最近少し悶々としている。並行してもっと「手に職」的な何かを身に付けたい。それも1つじゃなく、できれば複数できるようになりたい。正直、まだ曖昧で具体的な何かを見つけられてはないのだけれど。その「手に職」+ 今持っている&勉強中のスキルをうまく組み合わせて。ネットや仮想空間だけじゃない、現実の暖かみのある何かと一緒にshopなり、webサービスなり、何か「自分の仕事」として自立した形にしたい。そして老後も細々とでいい。自分のペースで何かしら働いて収入を得られる環境を今から少しづつ整えたいのだ。

 

不器用な自分が「手に職」って…どこまでのレベルを目標にするかにもよるけど。考えてるほど簡単じゃないだろう。正直、夢物語だとバッチリ気がついている。でも、まだ自分の気持ちが暖かいうちに、まずは何かやってみたい。とにかく今のスキル以外の何かを、早々に学び始めなければと思う。

 

それは何がいいのか?自分は何が向いてるのか?恐らく性格的に、命に関わるような責任の重いモノはダメだ。もちろん何に対しても無責任にやる気はこれっぽっちもないけれど。必要以上にリスクや人への迷惑を心配する自分の性格。きっといろいろなシーンで悶々と足踏みする自分が予測できるからだ。必需品や実用的なものだと、きっとある程度ニーズが確保できる可能性も高いが、その分やっぱり責任も重くなるだろう。

 

恐らく、無くても生活には全く困らないモノ作りの方が自分には合っている気がする。「無駄」にこそ、楽しさや豊かさが隠れていると感じている自分は、きっと「癒」とか「楽」「嬉」とか?暮らしに潤いを与えるようなものがいい。数値では計れない感情や気持ちを動かすような何か。そういったものに携わりながら、この先の「生涯の仕事」としたい。

 

布や木工や革職人なども憧れる。リースや箱庭、盆栽なども良い。カードやモビール、絵本などもやってみたい。北欧などヨーロッパも良いが、あえての和のテイストも良いと思う。書いていても闇雲すぎて笑える。錆付いていた自分を久々に動かそうとごちゃごちゃ絡まっている頭と心。いい歳して、まだ自分の気持ちすら形にできていないけれど。今年は少しだけ「未来の自分」を見つけようと悶々出来ている気がする。人や会社のためになら今までも努力できていたけど、初めて「自分のために」という気持ちが、ほんの少しだけど芽生えてきている。いつもみたいに悶々だけで終わらないように。。。とにかく今のスキル磨きと並行して何かを始められればいいなと思う。

心と体はつながっているらしい

私は数年前に「心が折れた」と自分でわかる瞬間があった。仕事でなんやかんやあり「ああ、自分はやっぱりダメだった。見捨てられたんだ。」と勝手に感じた瞬間だ。今思えば「そんなことで」とも思える事だが、その頃はいっぱいいっぱいで。とにかく見捨てられないよう、自分のキャパを超え猪突猛進で頑張っていた為に、上司の割り切った判断に心がついていけなくなってしまったのだ。

 

この「心が折れた」と感じた瞬間から、少し体調に異変が出るようになった。主に胸の奥の方から常に鈍痛や違和感を感じるのだ。痛み方はシーンによって様々だ。ピリピリしたり、ズドーンとしたり、バクバクしたり、圧迫感があったり。すぐ病院に行かなきゃというほどではないが、気のせいかなとも流せないくらいの違和感だ。とにかくひどく息苦しい。それと心の柱が折れた為か、心の中が空洞になってしまったような、妙にスカスカする感じもある。いろんな意味でとても不安になるのだ。今は心が折れたと感じた時からは何年か経っている。あの時に比べてだいぶ気持ち的にマシになっていると思うのだが、未だにこの異変は治る気配がない。人によっても症状は違うのだろうか?この痛みを治したいと色々調べて見るものの「自律神経失調症」っていうものかもとも思うが確信は持てなかったりする。一時期、心の病院に通っていた時に漢方などの薬をもらっていたが、全く効かないのでやめてしまった。なってみて初めて「心と体はつながっているらしい」ということを実感した。

 

こうなってから改めて「心が折れる」「心の支え」「心もとない」のような「心ほにゃらら」という言葉の的確さが身にしみて分かった。以前は結構簡単になにげなく使っていた言葉だが、今思い返すと言葉の重みが違いすぎる。頭では分かっているつもりでも、やはり自分で体験してみないと本当の意味には気がつかないのだろう。よく「心は脳にある」という話も聞くのに、心はなんとなく「胸」という意識が高いからなのか、異変は胸まわりに集中している。そんな違和感を感じながら、この「心ほにゃらら」の言葉の的確さを目の当たりにしては、意味の重さを噛み締める毎日だ。

自分の歴史を紐解く。というのは思ったよりシンドイ

普段の生活で「自分のこと」は基本的にあまり喋らない。いつも聞き役に徹している。自分の話しには何の価値もないし、ボロが出るどころか埃だらけで人を不快にしてしまうかも...という不安がある。ネガティブなことは特に話さないようにしている。明るく冗談交えて笑いながら愚痴を言い合うことはあっても、本気モードの話しは猛毒な気がして。話した人にまで感染させてしまうかも...と思うと話せない。そうして自分の中に押し込む癖がついた。

 

社会で生きて行くために、小さい頃からそれが普通だった。毎回その場で必死に自分の中で折り合いをつけ「汚い何か」を心の奥底に押し込んでは蓋をしてきた。ピュアな良い子でいるためには必要な作業だった。それが当たり前のことになりすぎて、そこに無理が生じてる事に、いい歳になるまで気がつかなかったのだ。

 

現状から抜け出すためには、自分の汚い本心と向き合うことがとても大切らしい。それを知って始めたこのブログは「心の闇を晴らすため」「本当の自分の気持ちと向き合うため」に書いているため、誰にも話せないダークでネガティブな内容ばかりだ。

 

今まで必死に外に出さないようにと何重にも繋がれた心の鎖を1つずつ解く作業は、ゲームの世界なら紫や黒で表現された毒々しい煙が立ち上る「悪しき何か」の封印を解くようで、とても勇気がいる。思い出したくない。考えたくない。認めたくない。そんな内容ばかりで思っていた以上にシンドイ。負ばかりで誰も幸せにできない内容で。書くのも読むのも負担が大きすぎて、書く前以上に心が苦しく重くなる。夢で再現されたり、夜に思い出して眠れなくなったりする。本末転倒な状況だ。書かないほうが気分がマシなんじゃ?という気持ちでいっぱいだ。だけど...やっぱり心の青空を夢見て、不定期でもう少し続けてみようと思う。

見捨てられ不安というバクダン。

誰でも少しはあるのでは?と思う「見捨てられ不安」。私はとにかく「見捨てられ不安」が異常に大きいようだ。事後に気づいたことだが、たぶんこれが原因で大人になってから2度も大きな人間関係のトラブルを起こしてしまっている。どうして自分はこんなにも「見捨てられ不安」が強いのか。いつから抱えているのか。向かい合っていくと自分の場合、やはり原因は幼少期にある。幼少期から見捨てられないよう、必死に生きてきたからだ。

 

私が幼稚園の年少位だったと思う。母が離婚しホステスをしながら育ててくれていたある日、突然「今日からこの人がお義父さんだよ。」と、お客の一人だったという男性を連れてきた。未婚で30代位だったその人は、とにかく本当に急に家族の一員となった。姉や兄は私よりも物心をついていたので、すぐに受け入れることはなかなか難しかっただろうと思う。特に姉は大人になるまで「お義父さん」と呼ばなかった。私は幼かったので、家にもお義父さんができたことに、素直に嬉しかったのを覚えている。義父はちょっと偏屈なところがある人だが、私はそんな義父に当時から良く懐いていた。

 

義父が来てからは、幼い私でも分かるくらいに生活が一変した。主に金銭面だ。大手の印刷会社に勤めていた義父には年2回の賞与があり、ボーナス時期が来るごとに家族のために大きな家電を買ってくれて、生活がどんどん快適になっていった。車もあり、すでに大きかった姉はほとんど行かなかったが、夏休みには家族で旅行にも行けるようになった。当時大人気だったファミコンなども買ってくれたりして、血の繋がっていない私達を義父なりに可愛がって、本当に良くしてくれたと思う。感謝してもしきれない程だ。

 

一方で「今日から義父だよ」と連れてきたはずの母は、こんなにも良くしてくれている義父と籍を入れるのを嫌がった。それは今も続いていて、未だに籍を入れていない。離婚を経験していろんな苦労をしたからだとは思うが、子供には結構ツライ環境になった。もともと離婚した時に母は旧姓に戻ったが、子供だけ折り合いがつかず本当の父の苗字のままで生活していた。そこに新たな義父の苗字が登場。表札には3つの苗字が並んだ。思春期はとくに、何か学校で親の名前を書く書類を出す度に嫌な思いをしたのを覚えている。

 

そんな母と義父は今でも一緒にいるのだが、当時からとにかくケンカが絶えなかった。ただのケンカではなく、大ゲンカだ。ケンカをすると常に数ヶ月単位に及ぶ。夜中に口論で目が覚めて眠れなかったり、数ヶ月も口を聞かなかったりが頻繁に起こっていた。時にはリモコンをぶん投げて物が壊れたり、熱々のラーメンが家の中で投げつけられたりと、ドラマで見るようなかなり激しい大ゲンカだった。その度に母は私にいつもこういうのだ。「お義父さんは本当のお父さんじゃないんだからね。いついなくなるかわからないよ。覚悟しておきなさい。」

 

そんな環境で育ったため、かなり小さい頃から「見捨てられ不安」は当たり前にあった。でもそれが当たり前すぎて、良い歳になるまで自分が「見捨てられ不安が異常に強い」とは思いもしなかったのだ。もともと私は「望まれずに生まれた子供」という意識が高い上に、良い子でいないと「お義父さん」はいなくなってしまう=見捨てられてしまう。そんなバクダンを抱えながら育ってきたのが、今の私を作った要因に大きく影響しているように思う。気づけた今、少しでも意識を変えたい。だけど小さい頃から当たり前のように蓄積されたものを急に変えることはとても難しくて。何が普通で、何が異常なのかも理解が足りずにいる。意識の変え方も検討がつかない。こんな状況でいつか生きづらい毎日から抜け出せる日は来るのだろうか?

 

親に育ててもらう時期は、子供にはどうにもできないことが多すぎる。それなのに理不尽にも時間は待ってくれない。自分の心は置き去りのままでも、見た目だけはどんどん成長していく。そして実年齢が大人に達した瞬間から、世間から大人としての立ち振る舞いを当然のように要求されてしまう。そこがツライ。小さい頃に可哀想。大変だね。大丈夫?と言ってもらえそうな出来事があったとしても、大人の年齢になった瞬間、昔と今を切り離して今だけを見られてしまう。とはいえ結局、誰しも様々な苦労をしてきているだろうに立派に大人になっているのが実状で。気がついたのすら最近だけど、きちんと大人になれていない自分はやはり甘いんだろうと自責を続ける日々だ。

「ボダ」というゾンビ

病院で境界性パーソナリティ障害のリーフレットを手渡された時、先生に言われたこと。「インターネットなどでこの病気について、いろんな風に書いてあるけど信じないでね。これに書いてあることが本当だから。」

 

実際ネットで調べて見ると、境界性パーソナリティ障害は世間で「ボダ」と呼ばれているようだ。「境界性パーソナリティ障害」という名称で書かれている記事はまだマシだけど、「ボダ」という名称で書かれた記事は相当ひどい言われ方をしている。なんというか...ゾンビのような扱いで。ボダと関わったら終わり。という事例が多いようだ。

 

私がこのゾンビ側だと思うとツライ。自覚してからは特に人と極力関わらないように心がけている。心がけてはいるが、生きていると全く人と関わらず生きていくのは難しい。どんなに避けていても、社会人として仕事でも、親としても、妻としても、人との関わりを避けられない場面が世の中にはたくさんあるからだ。

 

「とにかく人に迷惑をかけないように。」ゾンビと自覚してからは、ますます分厚い猫をかぶって生きるようになった。時折どんな風に振る舞えば正解かわからなくなって、人前なのに何も話せなくなったりもする。「本当はもっと自分らしく生きたい。」という思いとは真逆に、どんどん本当の自分がどんなだったかわからなくなる。負のスパイラル。これは一生続くの?どうやったら抜け出せるんだろう。早く人間になりたい...そんな思いを抱え、まるで妖怪な自分に苦笑する日々だ。

私が産まれた意味。

私が小さいころ、親が離婚した。離婚したのは私が2つ3つ位だろうか。本当の父親と暮らした思い出は1つもない。そんな状態だが、なぜか写真のように切り取った1シーンだけ覚えている。この記憶は父親が最後に出て行った日のものだろうか。自分が着ていた服、場所、父と母が争うシーン。でも不確かでおぼろげで。本当のことなのかは今もわからずじまいだ。私は姉・兄・私の3人兄妹。その時代に母が3人の子を育てるのには相当な苦労をしたんだろうと思う。

 

私が小学生位になると、母はその離婚話を良く私に話した。単に「あの頃は本当に大変だった」「本当に父親はろくでもない人だった」と過去の苦労をアピールしたいだけの意図だとわかっている。だけど、その話が今も私の中で根強く蝕んでいる。こういうのを俗にいうトラウマというのだろうか?

 

私が生まれた頃、すでに父親はほとんど家にいなかった。外であちこち女の人を作っては帰らない生活をしていたそうだ。そんな生活の中、母は既に子供を2人抱えながら、最後の切り札として私を産んだ。父は事業を営んでおり、後継のために男児を望んでいたからだ。今思えば、すでに兄がいたのだから良かったのでは?と思うが、母は父を取り戻すのに必死だったのだろう。男児の赤ちゃんを見たら自分の元に帰ってくるだろうとの思いから私を産んだのだそうだ。そんな状況の中、空気を読まず女児で生まれてしまった私を見るなり父は「女児なんていらない」と言い放ち、ますます家に帰らなくなった。母は何年か籍を抜かず頑張ったようだが、結局父を失望させた私が引き金となり離婚を決定付けた。同時に、父の帰りだけを待ち望んでいた母をも失望させる結果になった。離婚した母は1人で3人の子を抱える羽目になり、私が増えたことでますます負担も増え、母は子供を育てるために夜の仕事をするようになった。

 

当時から母は私を責めるために離婚時の話をするのではないことはわかっていた。だけどこの話を聞くたびに、本当に苦しくてショックで。私は誰にも望まれずに産まれた子供だったのだ。結果的に家族をバラバラにし不幸にしてしまった。私が男児だったら家族は幸せだったのだろうか?私は生まれてこなければ良かったのではないか?

 

とはいえ、私にはどうしようもできないことで。正直そんなこと期待されても理不尽だとも思う。でも、その話を聞いた日から確実に私の中で私の価値がないものになっていった。私がいなかったら、家族はもっと楽な暮らしだったのだろうか?母は夜働かなくても良かったのだろうか?そんなことをいつも考えてしまうようになった。

 

そんな自分なのに。決して裕福ではなかったけど、きちんと大人になるまで育ててもらった。そう思うと私は幸せな方だということもわかっている。今も私を蝕むこの昔話を他の人が聞いたらそんなことで?と言うかもしれない。でも私はこの話を幼い頃からいい大人になった今もずっと引きずって生きている。そんな自分にまた今日も嫌悪する日々だ。